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小室秀一
米沢高等工業学校の誕生と存亡の危機
(2008年11月)

百年史をまとめるに当って、これまでまとめられてきた50年史、80年史を調べていると学校や大学の流れは理解できるものの、地元米沢との関わり合い、米沢の人々との関わり合いが希薄に感じられ、どうもすっきりしない点がある。特に、工学部の前身である米沢高等工業学校の誕生と大正4年に起きた二科廃止問題(存亡の危機)についてである。
まず、高等工業学校の誕生については、50年史では、「本学創設の気運」として冒頭に、明治35年末に山形県議会議長から文部大臣、内務大臣宛に出された意見書が記されている。しかし、この文書の内容は学校誘致のための宣伝文句が列挙されたもので、誘致に至る動機付けが書かれてなく、あまりに唐突に感じられた。あたりまえの様にただ単に地方振興のために意見書が提出されたのであろうか。何か腑に落ちない。わざわざ、県議会の決議までして。何か別な背景があるのではないか。
ここで、一人の人物が登場する。平田東助である。平田は米沢出身で、ドイツ留学後政府に登用され内務省、大蔵省、法制局と勤務していた。明治24年に伊東忠太らが東京で結成した同郷人の団体である有為会の集会に当時法制局部長であった平田が出席し、話をした中に「全国的な米沢の地位を維持し福利を図るためには、まず『米沢の教育と経済とを、同一の方針のもとに前進させる』必要がある。」と語っていた。(米沢有為会百年のあゆみ)
その平田が明治34年6月に第一次桂内閣の農商務大臣として入閣した。地元米沢では、この後、間もなく明治35年4月に国策会社として米沢輸出織物模範工場が誘致され開業している。この模範工場は原料である生糸輸出依存から付加価値を高めた織物輸出への転換を目指すものとして米沢以外に桐生、足利、京都、福井に設置された。この模範工場の誘致は、当然ながら平田の尽力によるものと言われている。(旧版米沢市史)
平田の考えからすれば、教育と経済の同一方針での発展であったから、模範工場と併せて教育の発展が必要であった。同年末の山形県議会議長からの意見書は、平田の考えに沿ったものではなかったかと考えられずにはいられない。平田と県議会との関係を示すものは見当たらない。しかし、大正2年に挙行された米沢高等工業学校の開校式で、代読された平田の祝辞の中に「予は米沢藩に生し鷹山公の遺徳に浴したる者にして、又本校の設置に関し多少の縁因なきに非ず」と米沢高等工業学校設置に関係していたことが述べられている。
明治35年の意見書の後、同37年に日露戦争が起こり3年を経過して、明治38年末に再び米沢出身の山形県議会議長池田成章名で工業専門学校誘致の意見書が内務、文部大臣に提出された。翌39年3月には米沢市長二村忠誠外11名によって文部大臣宛要望書が提出された。その後、熊本、仙台に工業専門学校設置が決まった後、同年9月に米沢市長二村忠誠から文部大臣へ内申が提出された。この文書では、先を越された仙台には無い染織二業に的を絞った高等工業学校設置の要望書であった。
その後、県知事からの上申が提出され、政府と交渉の結果、寄付金10万円に決まり順調に進むかに見えたが、県議会ではこの10万円の出金でドタバタが起こったようである。結局、県議会議長池田成章が5千円の自腹を切ることを覚悟し、調整の結果、やっと県議会を通過したようである。(「過越方の記」拾遺) 池田は、平田とともに、有為会名誉会員であった。米沢高等工業学校の誕生は、数多くの米沢人の働きによって生み出されたものであるが、特に、平田と池田の功績は少なからず大きいと言えよう。
学校存亡の危機は、明治43年に開校してから5年後の大正4年に起こった。その状況が「米沢織物同業組合史」に記載されている。「大正四年秋文部省は米沢高工紡織色染両科を廃し、来春より開校すべき桐生高工の織染科に移転することに決した。而して同年十一月米沢高工校長大竹多気は来訪者に対し、かくなる上は希望者は桐生に走り米沢は入学志願者なかるべく、政府は多分明年より米沢高工の紡染二科の生徒を募集せざるべしと言ふた。之を耳にせる米沢では事の意外に驚き、十一月五日の組合会では、これ米沢に取りゆゆしき事件であるから放置することが出来ない宜しく市当局と協力一致の行動を取り、極力是が防遏運動をなすべしとなし、直ちに其費用として金五百円を支出することとなった。・・・」と言うことで、米沢高等工業学校の特徴を標榜する学科が廃止されることになってしまい米沢市全体が寝耳に水の状態で驚かされたことだったであろう。一方、当事者である学校側は、当時の学校日誌を見ると反対運動も起こらず何事もないかのような状況で過ごし、やっと12月22日の終業式のとき初めて生徒に校長から色染紡織二科廃止問題が話されている。このギャップは、非常に不可解なものであった。この二科移転の発案をしたのは初代校長大竹多気自身であったらしい。(群馬大学工学部五十年史) 果たして、学校側、少なくとも校長と若干の人は予め知っていたのである。日誌に何事も記載されていないのは、校長始めごく僅かの知っている人間が黙っていたのか、厳しい緘口令がしかれていたのかのどちらかである。
この問題に対処した米沢は、目を見張るものであった。まず米沢織物同業組合は、11月初めにことを知って11月5日には組合会を開き、米沢市と協力して反対運動をすることとその軍資金として五百円を支出することを決めている。そして11月下旬に当時の政党である政友会、同志会の大会の開催に合わせて、組長と市長が上京し両政党に陳情し、二科復活に尽力してもらうことを取り付けた。しかし、文部省はこのとき既に大正5年度の二科の生徒募集を予算に計上しないことに決め、貴族院、衆議院の両院にその予算案を提示した後であった。更に交渉を重ねた結果、二科存続は、東北地方発展のため必要であるという建議が衆議院に提出されたときは、移転には固執しない内諾を得た。政友会、同志会の両政党の代議士会では、建議案が提出された時は存続に賛成することに決定し、貴族院は、平田東助、下條正雄の二人で取りまとめることとなった。同時に米沢有為会では、委員会を組織し陳情書を提出し、帝国議会では、米沢市会の建議書及び代議士小林源蔵の意見書を貴族院、衆議院の議員に配布し反対運動を展開した。結局、山形県選出の代議士一同が建議者となって衆議院へ建議案が提出され、12月23日に即決され二科存続のための予算が追加された。このことが記載されている米沢織物同業組合史には、「本問題に就いては小林源蔵(米沢出身)及び竹村欽次郎両代議士の斡旋尽力は特筆大書すべきものがある。」と結ばれている。
この存続問題の対処には上記の2名の尽力が大きかったかもしれないが、僅か2ヶ月の間に米沢出身の貴族院、衆議院の議員を筆頭に全市の人々がまとまり、一丸となって存続運動を展開したことによって政府案を覆してしまったのである。このエネルギーは、米沢人が一致団結して爆発させたものと言える。
この2つの出来事は、山形大学工学部の前身である米沢高等工業学校が、米沢の人々によって創られ、米沢の人々によって守られてきたことを示している。

小室 秀一(こむろ しゅういち)
百年史編集局員

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