山形大学

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米沢でのアルバイト生活 -第1回-
今月の話題(2009年3月)

第1章 山形にて
山形大学に入学したのは昭和29年である。一年間は山形の文理学部で一般教養課程の講義を受け、後の3年間は工学部のある米沢で過ごした。釧路を離れて初めて踏んだ山形県の土地が山形市なので山形には特別な思い入れがある。今考えてみると当時の山形は終戦後の混乱を抜けきっていなかった。我々がドッペリ横町と呼んでいた屋台が並んだ通りや凄い混雑で汚かった駅前のバスターミナルなどがそのことを物語っていた。しかし、山形は県庁所在地であり、米沢よりもずっと華やかな感じがした。
私は無理して大学に入ったと言える。当時姉と生活しており経済的に姉に依存していた。一年生の頃は経済的に苦しかったが、寮の周囲の人達も貧しく、時代も時代だったのでそれほど苦にならなかった。一年生のとき姉が結婚した。釧路に帰ったときは米吉叔父のところに滞在するようになったが、気兼ねしながらというのが実情だった。
釧路との往復の旅費のことも合わせ考え、一年生終了時の春休みには寮を出て下宿することにした。休み中も寮に泊めて貰えると思っていたが、現実は厳しかった。

第2章 米沢に移って
4月に米沢に移り、白楊寮に入った。白楊寮は面白い組織になっていた。全体が六つの寮(北寮、中北寮、中寮、中南寮、南寮、新南寮)に分かれ、一つの寮に入ったら退寮するまでその寮から抜けることができなかった。私は北寮の寮生になり、北寮の人達と緊密な付き合いをすることになった。

北寮には非常に特徴的な人が多かった。ここではアルバイト関連で関係が深かった畔柳卓夫さんのことを述べる。彼は吉原市出身で私より三つ年上であったが同学年である。私は山形にいたころはアルバイトをせずに切り詰めた生活をしていたが、彼は山形の職安に通って職を得ていた。彼は独特の物の見方を持っていて私は相当影響を受けたように思う。4月に北寮で顔を合わせて話をしているうちに職安に行って職を探そうということになった。職安は粡町の音羽屋旅館前にあった。ここで土方の仕事を紹介してもらい、5月の連休に農業土木の工事現場で働いた。場所は銅屋町を越して山形に向かう街道の脇で、農業用水路掘削の工事だった。畔柳さんと二人で連休期間中ここで働いた。5月1日のメーデーの日、朝現場に着いたころ雨が降ったので間もなく解散になった。そのあと北寮の左傾の人(多分共産党員だった工藤さんでなかったかと思う)に出会い一緒にメーデーのデモに参加した。
このアルバイトで考えさせられる経験をした。土方の世界には小回りという制度がある。一定の仕事を仕上げると時間に関係なくその日の規定の日当を支払うと予め決めておく制度である。用水路の掘削ではここからここまで掘削すれば一日分を支払うというものだった。ある日小回りの現場に出会った。数人で一定量の掘削を請け負い、午前中に仕上げてしまった。人間の本性がよく判ったような気がした。
この仕事の最中に近くの電信柱に雷が落ちたことがあった。今思うと非常に危険な状況下にあったのであろうがそんなことを考えもせず、電信柱の先端に蝋燭のような青い炎が立ち上がるのを美しいと見とれていた。

第3章 藤田博先生と伊勢屋
工学部に所属する英語の先生、藤田博先生が学生の家庭教師のアルバイトを紹介してくれるという話を聞いた。多分電気の一年先輩の石山さんからでなかったかと思う。早速先生にお願いしに行った。私は山形の教養課程で先生から英語を教わり、非常によい成績を取っていた。昭和30年の初夏、先生に連れられて伊勢屋を訪問し遠藤さんご一家を紹介してもらった。伊勢屋は味噌醤油の醸造元で歴史が古く、私が生活していた白楊寮に味噌醤油を納入していた。伊勢屋は上杉家の参勤交代の道筋、すなわち大手門を出て初めての曲がり角にあり、格式が高い家であると言われていた。
大正8年の米沢の大火のあとに建てられた家は誠に立派で豪壮なものだった。この家が白蟻にやられ、平成17年に入って取り壊されることになったのは誠に残念である。
遠藤さんでは先代の武右衛門さんが健在だった。当主は政一さん、慶応大学で野球部のマネージャーをやっておられた由、奥さんは山形の長谷川家の出であった。山形の長谷川家は有名な旧家であることを後に知った。私は長男の中学一年生、勝馬君に英語と数学を教えることになった。週に2回か3回伊勢屋に通った。白楊寮から伊勢屋までの道筋は今歩くと誠に懐かしく感じられる。
遠藤さんのご主人政一さんは変わった考え方の持ち主で、本人は合理的と思っておられたのだろうが、報酬は日当で支給された。最初は確か一回100円だったと思う。後に若干の増額があった。しかし、遠藤さんは家庭教師を大事にしてくれた。勉強が終わったあとときどき珍しいものを御馳走してくれ、米沢の土地を理解するのに役立った。
ここでの家庭教師は卒業するまで続けた。卒業してからも遠藤さんとの付き合いは続けており、奥さんから(もう90歳を過ぎている)とは毎年御歳暮を交換している。


成田 嘉太(なりた よしひろ)
(応用化学科1933年度卒業)

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