山形大学

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米沢でのアルバイト生活 -第2回-
今月の話題(2009年5月)

第4章 川又親分
畔柳さんとの職安通いは続いた。職安の紹介である家の庭にある畑を耕す仕事をしに行った。その家の主人は中学校の先生で未亡人のようであった。畔柳さんと二人で剣先スコップで耕し始めたが、土地が固かったためかはたまた我々の体力が不足したためか、先方が予定していた畑を耕すことが出来なかった。夕方その女性の先生が帰ってきて溜め息をつきながら日当を払ってくれたのを思い出す。今でも済まなかったと思っている。

昭和30年の秋近くなって職安から川又五郎さん(確か川又組という名称でなかったかと思う)を紹介して貰った。川又さんは秋田出身で婿入りしたため家にいると肩身が狭いので旅に出て仕事をしているとのことだった。駅前の沖田さんのところに下宿していた。木村さんという若い人(学生よりも年上)を使っていた。我々が沖田さん宅を訪問したとき川又さんが仕事の代金の代わりに受け取ったちりかみの山が家の中に高く積まれていた。その頃白布高湯と檜原湖を結ぶ早稲沢林道が一応開通したが、ところどころ岩が出っ張ったりたり道幅の拡張が必要だったりして、残工事をしなければならない状況だった。この仕事を川又さんは請け負っていた。本工事にも川又さんは何らかの形で参画していたのでないかと思う。秋休みにこの残工事に参加した。本工事の飯場がまだ残っており、ここに一週間程度滞在した。最初の日は川又さんも一緒だったが次の日からは木村さんと畔柳さんとの三人で仕事をした。川又さんには、もっこの担ぎ方、空弁当に水を汲んでくる方法、土方巻きという手拭いの頭への巻き方(合理的な汗の止め方)などを教わった。請負仕事は儲かるときは大きいので小売りのような仕事は出来ないと話していた。木村さんには発破のかけ方を具体的に教えて貰った。

夜食事が済んだら何もやることがなく、暗いランプの下で畔柳さんと話し込んだ。平凡な生活でも平凡であるということが大きな出来事であるなどということを話し合ったことを記憶している。

全ての残工事を終えて資材を迎えのトラックに積み込んで沖田さんのところに引き揚げてきた。資材を倉庫に入れる際迎えてくれたのが沖田さんの次女であったことを今も覚えている。

この仕事で稼いだ金を持って秋休み中に同級生の南雲と一緒に仙台の本郷君のところに遊びに行った。いい旅だった。

その後川又さんは松川の砂利を篩いにかけて建築用の骨材を製造する仕事を開始した。松川の河川敷での作業で結構な重労働だった。川又さんの要請に基づいて白楊寮の連絡用拡声器で寮生から希望者を募集し、何人か連れて出掛けたものである。川又さんは時々見回りに来るだけで、作業は我々に任されていた。ある時作業を中断して全員が近所のよろづやに出向いて中に入って腹を満たしていた。その前を川又さんが店の方に顔を向けず河川敷の方を見ながら自転車で通過した。怪訝そうな顔であったのを記憶している。

川又さんは寮生と親しくなり、マージャンの用具を持参して寮生とマージャンをするようになった。 川又さんは相当後になって米沢を去り、伊豆大島の護岸工事をするようになった。昭和49年に私が徳山から千葉県平川町(当時、今は袖ヶ浦市の一部)の研究所に転勤になったとき、しばらくして女房子供を連れて伊豆大島の川又さんを訪ねたことがある。大層なもてなしを受けた。

第5章 缶詰販売
昭和30年も秋が深まった頃白楊寮は一つのマーケットでないかと畔柳さんと話し合い、缶詰を寮内で販売してみようということになった。畔柳さんが仕入れを担当した。当時4年生で北寮から下宿に出た工藤さんを通じて、豚カツ屋の満月から仕入れたようだ。その際工藤さんが中抜きをやったと畔柳さんが言っていた。仕入れたのは鰯の缶詰4ダース位だったと思う。缶詰3個100円の価格で販売した。この価格では儲けが僅かだった記憶がある。北寮から始めて南寮に行くまでに売れてしまった。そのとき中北寮に住んでいた一年先輩の穂積さんが快く買ってくれたのを記憶している。これには後日談がある。私が平川町の出光の研究所に勤務していたとき、広栄化学の東京営業所にいた穂積さんがアミン化合物の紹介・販売で若い人と二人でやってきた。仕事のことよりも昔話に花が咲き、缶詰購入に感謝を申し上げた。夜は姉ケ崎の寿司屋で乾杯した。そしてその後東京で同窓会で会ったとき穂積さんからお返しがあり、人生万歳を満喫した。

缶詰販売は仕入れの問題があって続かなかった。 缶詰販売の前のころだったと思うが、読売新聞の購読者拡張のアルバイトがあった。寮に話が来て10人程参加した。これは完全な歩合制で、購読者を獲得出来なければ収入はゼロであった。半日戸別訪問を行ったが収穫はなかったの途中で断念した。だが、一人優秀な成績を収めたのがいた。谷川亘である。彼は新聞そのものの売り込みを早めに断念し、グラビア誌の購読者拡張に専念した。彼には才能があると思った。彼は田島応用化工に就職し、この方面の能力を発揮したと聞いている。

年が明けて昭和31年に米沢でインターハイのスキー大会があった。この機会に何か我々にやれることはないかと畔柳さんと話し合った。雪が降る寒いスキー場で温かい汁粉を販売すると売れるのでないかと考え、商売を行っている先輩に相談してみようということになった。粡町で呉服屋をやっておられた工学部第一期卒業の山森茂一郎さんを訪ねていろいろご意見を聞いた(因みに我々は六期生)。山森さんに大いに激励されたことを記憶している。しかし、この企画を実現するには障害が多く、断念せざるを得なかった。インターハイでは新聞社の記事配送のアルバイトを行った。スキー場で記者が書いた記事を通信部まで自転車で運ぶ仕事である。

第6章 売血
血を売ることがアルバイトであるかどうか疑問だが、報酬を得るという点では共通する。昔は血を売って生活の足しにしていた人は存在した。

昭和31年度に入って2年生が山形から米沢に移動してきた。白楊寮の収容人員は確か176人であったと思うが、新2年生を多数収容するため6畳一部屋に3人が詰め込まれるということが行われた。私はクラスメートの小野寺君と2年生の3人部屋の生活を開始した。そのころある病院から売血の話が寮に持ち込まれ、私はそれに応募した。名前は覚えていないが小さな病院で200ccを採血した。その際200ccよりも多くとられたのを記憶している。報酬は400円で、その金でその晩酒を飲んだ。次の日の夜机に向かって一応の勉強をしてから床についた。そのあと身体が震えだした。明らかな貧血である。小野寺君が置賜病院に電話して医者を呼んでくれた。当直の若い医者がやってきて強心剤の注射を2本打つと身体の震えは収まり正常に戻った。その医者は山形大学工学部の前身の米沢高専を卒業してから医者の学校に行ったらしく、白楊寮の我々の部屋を懐かしく眺めしばらく我々と懇談してから病院に帰って行った。

このとき治療費を支払わなかった。その後請求がないのでそのまま放置してある。あのお医者さんには誠に申し訳なく思っている。



成田 嘉太(なりた よしひろ)
(応用化学科1933年度卒業)

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