山形大学

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米沢でのアルバイト生活 -第3回-
今月の話題(2009年5月)

第7章 これもアルバイトか
今考えると悪いことをしたなと思うが、若者の稚気として許してもらいたい行為がある。畔柳さんは寮生が捨てた下着を洗濯して公益質屋に持参したということを聞いた。質屋は相手にしてくれなかったらしい。昭和31年の春休み前にこの話に触発されて寮生が帰省したあとの白楊寮内を何か質草になるものがないか見て回った。確か中寮だったと思う、編み上げの革靴が残っていた。これを丁寧に磨いて高橋秀演君が家庭教師をしていた質屋に持っていった。金額は忘れたが確かに金になった。勿論質草はそのままである。これもアルバイトと言うべきか。

ある晩友人と街中で酒を飲んでぶらぶら白楊寮に向かって帰る途中のことであった。門東町あたりだったと思うが鍵が掛かっていない自転車が放置されているのに出会った。これは拾得物だから警察に届けなければならないとそれを押して歩きだしたとき、数メーター離れたところをふと見ると男が寝ころんでいた。相当酔っているようだった。構うものかと当時街の中央にあった警察署に持参した。係の警官が調書を作成したあと寮に戻った。翌日警察署から呼び出しがあり、自転車の所有者が見つかったので謝礼の500円を受領するようにとのことだった。当時の500円は価値があった。このとき拾得物に対する謝礼は5%〜15%の範囲で支払うことが法律で決められていることを知った。

昭和32年、4年生のことである。私はクラスで最初に就職が決まり、のんびりした学生生活を送っていた。秋深いある日、学校の帰りに学生がよく行く飲み屋で乏しい財布を叩いて酒を飲んでいた。そこに高山繁寿がやってきて今夜の夜行で就職試験を受けに東京に行くと言う。暫く歓談したあとじゃあ駅に送って行こうということになった。彼とは就職試験用履歴書の作成において大いに協力したという関係があった。彼が乗ろうとした列車は各駅停車の上野行きであった。米沢では蒸気機関車を電気機関車に換えるため停車時間が長かったので車内に入ってお喋りを続けていた。発車時間が到来したのでホームに出たとき、ノートを包んだ風呂敷包みを車内に忘れたのに気がついてまた汽車に飛び乗った。風呂敷包みを手にしたときは列車は動きだしていた。さてどうしようと考えた。次の駅で降りて下りの列車を待っても翌日になってしまう。いっそのこと東京に行こうということにした。
当時は闇米の担ぎ屋が商売になる時代だった。列車が福島を過ぎてしばらくしてこの列車にも担ぎ屋が乗り込んできて、各座席の下に2斗の米が入った紙袋を順番に放り込んで行った。かなり列車が上野に近づいたころと思う、警官が車内に入ってきて座席下の米を引き出して没収していった。このとき私は座席の下にあった米袋を座席に取り上げて高山との間に置き、着ていたレインコートを被せて隠した。警官が降りたら担ぎ屋に返してやるつもりでいたのであるが、警官がいなくなると担ぎ屋連中も直ちに列車を去っていった。米袋を返す相手がいなくなったのである。
翌朝上野に着いた。米沢では入場券でホームに入り、上野に着くまで検札がなかったのでその時点で上野までの切符を手にしていなかった。その列車には東京以遠で就職試験を受ける予定の高野氏も乗っていた。彼に途中下車してもらい、入場券で入ってもらった。2斗の米袋を担ぎながら改札口でその入場券を駅員に渡してホームを出た。恥ずかしながら薩摩の守をやってしまったのである。
当時上野駅の改札口を出て左側に手荷物預かり所があった。そこの窓口に米袋を持ち込み買ってくれるよう頼んだ。当時の闇米の値段は一升が110〜120円であることを知っていたので2000円の値段を付けたところ直ぐに買ってくれた。夕方上野駅で会う時間を決めて高山と別れ、釧路湖陵高時の同級生・牧敏男君の下宿先(池袋)を訪問し、しばらく寝かせてもらった。
夕方になって牧君と連れ立って築地にある出光興産の本社に寄った。私は既に出光興産に就職が決まっており、そこの技術部を訪問し一年前山形大学の助手から中途入社した中村昇太郎さんに面会した。当時私は佐々木研究室でメタンの熱分解によるアセチレンの製造に関する卒業研究を行っていたが、原料をもっと高級な炭化水素に変えたいとの希望を持っていた。そんなことで東京に来たこの機会を利用してナフサの提供をお願いした。このあとしばらくして18リッター缶に入ったナフサを送って頂き、その分解実験を行うことができた。
上野駅で高山と落ち合い、一緒に食事をした後、また鈍行の夜行列車に乗って米沢に帰った。今度はちゃんと切符を購入した。高山から千円を借りていたので食事の際米の売却代金の中から返却した。
高山繁寿君はその際に受けた海上電機の入社試験に合格し、翌年4月から該社で社会生活に踏み出した。全てがうまくいった秋の一日だった。

昭和30年の4月に白楊寮の北寮に入って直ぐのころと思う、畔柳さんの部屋で数人が集まって雑談していたとき、彼は山形の職安での経験を話した。職安で仕事を探していたある日のこと、年配の小母さん(彼の言葉からいわゆるやり手ばあさんを想像した)から声を掛けられた。「お兄さん、男を売りませんか」と。彼は直ちに断ったと話すとその席にいたみんなはそうあるべきだと頷いた。相手次第だよというものはいなかった。畔柳さんは彫りの深い顔だちであり舟山病院のお祖母さんはよい男だと言っていたのを思い出す。彼だから声を掛けられたのでないかと思ったりした。その後世の中が変化してホストという職業が出現しているのを考えると時代の先取りが山形にあったのかと思う。

第8章 振り返ってみて
米沢での3年間は確かに経済的に窮屈だったが、徐々に改善されていったように思う。2年生のころから釧路市の奨学金を貰うようになり、二学期から授業料免除を受けるようになったし、3年生になって育英会の奨学資金を借りられるようになった。
4年生になって6月には白楊寮を出て下宿生活を送った。下宿生活を一度経験してみたい、寮生活はあまりにも殺伐としている(特に冬は)と考えてのことである。白楊寮で同室の宮沢君と一緒にリアカーを引きながら1里近い道のりを歩いて行ったことを思い出す。安い下宿ではあったが下宿できたということは経済的に余力があったということである。米沢市の旧市内人口は約5万人と言われていた。こんな小さな街で高収入のアルバイトを探すのは非常に困難なことだったと思う。そんな中で多くの人の善意に支えられて充実した学生生活を送れた。米沢という田舎だったから、東北出身の誠実な学友が周囲にいたから、米沢の人が学生を信頼してくれたからなんとかやれた。卒業してから米沢を何回も訪問しているが、行くたびに米沢の街は温かく私を包んでくれるように感じるのである。


成田 嘉太(なりた よしひろ)
(応用化学科1933年度卒業)

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