山形大学

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横山孝男
「グランドと体育館」にまつわるエピソードと
教授会資料
今月の話題(2009年7月)

 これら施設を振り返る機会が来るだろうとは思っても見なかった。1969年である。

 安保闘争、成田闘争、そして水俣病公害たけなわの頃で、デモとなれば我々体育会系は先頭と後駆(しんがり)を固めることとなっていた。サッカー部は後駆だから、町の中で知ってる人に見つかると、「捕まるなよ」と檄を受けた。高校上がりでちょっぴり大人の気分なのである。この頃から入試時は学生が立入り禁止になった。その後もストなどで学生が警察に捕まった。昭和44年9月16日の教授会資料には教養部から3名の退学処分がでるが内2人が工学部入学生である。小生は教育学部体育専攻の某先生に捕まったことがある。説得されて警察に行くことはなかった。先日宮武外骨の放送があった。何と気骨のある人か。こういう人に憧れた時代でもあった。さて体育施設であるが臨時の学生大会開催は手慣れたものであっと言う間に出来たばかりの大示範を埋め尽くす参加者を得て、大会成立である。この度は体育館建設であった。

 サッカー部の小生達が提案である。少々おかしい。その由は、当時のグランドを犠牲にしなければ体育館用地が無かったのである。学生から見れば故石塚修先生がキィパーソンであった。岡本正雄先生がいつも付き添っており、病室でもそうであった。小遣いを叩いて当時まだ貴重なバナナを包んで石塚先生を見舞ってお願いしての秘策であった。その後同部の村瀬克彦君は石塚研を修士まで進み、久村奨学金も得て帝人で活躍した。我々がリーダーシップであったが、2、3年後のM1、2年生代でもグランドは使えなかった。南部小体育館は冬のサッカー練習にもお借りしていたので重ねて世話になった。校長先生にはピアノの替え玉事件がおきたが、何かの間違いではないかと今でも思う。城史苑は二中と県の染色施設の後に建ったが二中の体育館にも世話になった。終わってからはすぐ表の小野川街道の「ドリアン」でマドンナの「密豆」を良く食べた。今もマドンナ姉妹は健在である。今、小室秀一委員は当時の教授会資料を紐解いているが、これら体育館グランドの話題が克明に写し出されている。昭和44年5月20日、6月17日教授会資料。但し補導委員長は荻野修作先生、小野寺力男先生だったりしており、石塚、岡本先生の匂いはしない。但し、「グランド敷地購入の希望が学生の間で非常に強いことに関し・・・」の記述はある。石塚先生へのバナナは効いたようだ。 第21回東北地区大学総合体育大会サッカーの部賞状


 南部小の南には専売公社の倉庫があった。その東に今も幼稚園がある。そこを入ると靴屋さんがあって何回もサッカーシューズに釘を打って直してくれた。偶然にもそこのおばあちゃん一家が後になって居を構えることとなった林泉寺の我が家近くに引っ越して来た。

 当時のサッカーは「与太者のスポーツ」と言われることがあった。工学部のサッカー部は垢抜けしていた。東北で唯一インカレ代表にも選ばれ、天皇杯にも出られる程であった。小生の代も、今年こそはダメと言われたが東北大学総体で優勝した。因みに「山大工学部65年史」では記述に誤りがあるが、この部分は自分達の件なので誤ったメンバーなどが明白である。

「グランドと体育館」を通して見た学生としての意識と大学側の教授会記録との一致度は満足である。史誌部会ではこの正確さを最優先にして紐解いている。

横山 孝男(よこやま たかお)
工学部百年史誌部会長

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