山形大学

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結城敏夫
工学部1泊2日
(2009年10月)


 ひょんなことから、百年史誌部会委員を仰せつかった。米沢市民となって2年目を迎えていた。
 創立100周年記念事業実行委員会の幹事にもいつの間にか名を連ねていた。着任後5か月ほど経ってからそのことを知った。その間、他の部会の委員に代理として2度ほど出席したことがあった。

 山形大学に勤務し30年余が過ぎると、さすがに創立記念行事に出会う。10年前には山形大学創立50周年記念行事があった。この10月15日の式典では元国連事務次長の明石康氏の案内役を仰せつかっている。30周年、40周年に当たる年にも庶務部(現総務部)にいたがその時何があったのか覚えがない。ただ、山形大学庶務部創立22周年記念祝賀会という一風変わったものを平成2年2月22日に開いている。この時も裏方に回った。
 招待を受けたのはたった1度、平成15年10月の鶴岡工業高等専門学校創立40周年記念祝賀会だけである。わずか3年間の勤務で招待された。初めて届いた招待状に心が弾んだ。

 工学部には、今から30年近く前の昭和55年2月に初めて訪れた。当時人事課にいたことから、監査のため人事課の他のメンバーと工学部を訪れたのである。
 当時は、いわゆる給与法と人事院規則というものが適用されていた。これらの規定に基づいて給与とかがきちんと支給されているかを確認し、お互い情報を共有するのが目的だった。毎年全部の部局を交代で回っていた。工学部と農学部は1泊2日の行程だった。
 その日は、重要文化財に通され、2日間とも2階の会議室で監査を行った。初めて見る重要文化財の重厚な建物は言うまでもなく、大学の事務組織が重要文化財の中で仕事をしていることに少々驚いた。また、半端でない雪の量にも驚いた。自分の住んでいる中山町の優に3〜4倍はあったように思えた。
 宿泊は五色寮だっただろうか。記憶が曖昧だが、同じ中山町から単身赴任をしていた方から寮の部屋や食堂を案内していただいたことを覚えている。
 以来、再び人事課を去る平成12年3月まで、幾度となく1泊2日の日程で工学部を訪れている。その度に事務部や技術部の方々には、深夜まで懇親会に快くお付き合いいただいた。温かな人情に心から感謝している。

 法人化とともにこの監査の実施に足踏みが続いていたが、人事課に舞い戻り人事ユニットに衣替えした平成19年3月にようやく再開され、久しぶりに工学部を訪れた。今回は扶養手当や住居手当などの手当の支給状況の調査が主で、日帰りという日程だった。
 調査も無事に終わり、久しぶりということもあって、懇親会を盛大にやっていただいた。2次会へのお誘いを遠慮し、終電の1本前の新幹線に3人で乗った。便利になったものだ。わずか30分で山形に着く。
 山形に着いたら代行車を頼もうと思っていた。車掌さんに声を掛けられ気が付いた。窓の外はやたらと雪が多い。終点の新庄だった。山形行の列車はもう無いという。終電に乗れば良かったと後悔した。終電は山形止まりだった。
 3人で乗ったはずなのに2人しかいない。おやっと思いつつ,明日の始発で山形に戻ろうと待合室の長椅子に2人で横になった。今度は駅員さんに起こされた。待合室が閉められ追い出されてしまった。近くにホテルがあることを知り、仕方なく泊まった。既に午前0時を回っていた。
 翌朝午前5時半頃の始発に乗った。さすがは特急の山形新幹線、午前6時前に動いていた。新庄から山形までの時間が異様に長く感じられた。工学部への出張は1泊2日に限るとつくづく思った。
 行方不明の1人はしっかりと山形で降りていた。降りる際には声を掛け2人とも返事をしたらしい。

結城 敏夫(ゆうき としお)
事務部企画調整役(学生サポートセンター)
障がい者職業生活相談員

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