山形大学

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芦田成生
ロケット実験に参加して
(2010年9月)


 私が参加したのは第11、14次隊のロケット隊員としてであった。昭和39年に明星電気(株)目黒研究所に入社し、当時の東大宇宙研究所のロケット観測実験に従事した。昭和40年3月頃、内之浦実験場で東大の永田教授(第1次南極観測隊長)から直接に、南極昭和基地でロケット打上げ実験をする計画を聞かされた。当時は自分が行けるとは思えず、上司に「係長が行くことになりそうですね」と話をした覚えがある。昭和42年に8次夏隊の鎌田先生(名古屋大空電研)が、目黒研究所に来られて南極の話をされた。また、その年に東大の等松先生(永田研)から9次隊に参加する鶴田隊員の観測装置を受け持ったことから、さらに南極に興味を持ち始めた。ロケット施設は10次隊から始まり、峠の茶屋を越えて基地から南西約500m付近に、ロケット組立棟、管制棟、レーダー・テレメーター棟が建てられた。現在のヘリポート近くである。

  昭和43年頃からロケット実験計画が本格化し、明星電気にロケット追尾用レーダー製作の依頼が来た。翌年春頃、等松先生と鮎川さんが目黒研究所に訪ねてこられて、11次隊で打上げるロケット搭載計器の内容を詰める作業があった。偶然にも私が担当する観測機器であった。鮎川さんは後日「きっと、この人が11次隊員として来てくれる」と予感したと私に語ってくれた。その時には明星から隊員を派遣して欲しいとの話は無かった。確か、昭和44年4月初旬のことだろうか国立科学博物館極地部(当時はここが南極担当)からロケット担当隊員(夏隊)を1名出して欲しいと依頼があった。私は一番に総務課に駆け込み、希望者の書類に書き込んだ。5月の連休中に家族と山形(家内の里)に帰っていた時、所長から電話があり、「越冬隊に変更になったが、行くつもりはあるか」と電話が掛かってきた。心の中では「ぜひ行きます」と叫んでいたが、もったいぶって「一晩家族と相談させてください」と答えた。結局越冬隊員として選ばれた。

 7月に隊員辞令があり、上野の極地部に通い始めた。当時極地部は科学博物館所属だったので、時々帰りに展示場に出て無料で見て廻った。会社ではロケット搭載計器の設計、製作に取り掛かった。

夏の菅平訓練が終わると、資材の調達に入り、板橋倉庫(現在の極地研の場所:平成21年3月現在)に通った。専門のロケット隊員は、私(明星)、伊東(日産自動車、夏隊)の2人で、仕事が終わると鮎川(超高層、極地部)、白壁(建築、松村組)、鎌田(設営一般、大雪青年の家)達と麻雀卓を囲んだ。この内芦田、鮎川、伊東、白壁の4人は、往きの「ふじ」では4人部屋だったので、航海中暴風圏もなんのその、基地に着くまで飽きもせず卓を囲んだ。

 ロケット部門は、日産川越でロケットの燃焼試験に立ち会ったり、荻窪工場で計器の組み合わせをして、準備を終えた。発射台は、東急車輛製で板橋倉庫の広場で仮組をした。準備作業の中でのトピックスは、レーダーを保護する赤いレドーム(ガラス線維を成型してプラスティックでコーティングをした物)の製作会社に立会いに行った時、岡本太郎の「太陽の塔」(大阪万博のシンボル)の縮小モデルに出会った。丁度、翌年に開催される万博用に製作している最中で、大きな分割部分を見せて貰った。平成14年に高校の同窓会の帰りに、万博記念公園に連れて行ってもらい、33年ぶりに初めて本物を目の前に眺めた。

  11次隊は、昭和45年(1970年)1月4日に昭和基地に接岸した。ロケット隊員も始めは、物資の輸送(輸送会社の副社長を務めた)や、基地の建物の建設作業に従事した。ロケット用の資材が搬入され、準備が整うとロケット基地の建設が始まった。全体では、回転発射台の組み立てが一番大変であった。鉄骨構造で太いボルトを1日何10本と手で締めるので、翌日の朝は手の筋肉が硬直して指が開けなかった。ランチャーを載せ終わると、私は追尾レーダーの設置に入った。

  電気配線は工事担当者が分電盤まで工事を終えてくれていたので、アンテナ位置を決め設置した。(当時は工期の都合でレーダー棟の前にした。12次隊で現在の位置に移設された) いよいよ室内装置の開梱に移り、ラックを組み立てた。配線を終了し機器に火を入れた(電気技術者は、機器に電気を流すことをこのように呼ぶ)。気象の大野隊員は、気象庁でレーダーを扱い慣れているので、援助してくれて「受信機系は俺にまかせろ」と言ってくれた。見事に機器は働き、大野隊員は「明星の機械にしては珍しいこともあるものだ」と感心してくれた。しかし、翌日基地に行き、機器に火を入れると、距離測定装置がものの見事に不具合になった。

  日本を出る前に4,5日訓練を受けただけなので、修理が大変だった。受信機系統は、大野隊員が調整してくれていて助かった。修理に時間を食い、ロケット基地の全設備の準備完了は1月31日であった。ロケットの搭載機器の準備に掛かったのは、2月に少し入ってからであった。2月6日に打上げ予定とし、リハーサルや実機の準備に入った。しかし、天候の悪化、レーダーの不調で延期された。平沢実験主任から「何時打てるのか?」と矢の催促で、ついに「2月10日前を厳守せよ」との命令が降った。 芦田成生

 この2月10日が選定された理由は、“(1)2月11日に宇宙研が日本初の人工衛星の打上げを予定していて、成功すれば南極ロケットの記事なんか吹っ飛ばされてしまい新聞に載らないだろう。(2)2月11日は建国記念日で、夕刊は休みなので12日の新聞になってしまう。”であった。

  2月10日13時50分(現地時間)全ての準備が整い発射体制に入った。実験主任が「打上を行なうので、関係者以外はロケット基地から避難してください」とアナウンスした。だが、風が8m/sと強く、上空も10m/s以上であり、ロケットの軌道が大きくずれそうであった。この機会を逃すと天候の関係で難しくなるのでスケジュールを続行することにして、鮎川、伊東隊員はロケットの準備を完了した。風は4m/sくらいに落ちてきたので、GOの判断がされた。打上げ時刻を15時30分として待機に入った。芦田と大野は、レーダーアンテナの待ち受け角をロケット軌道がずれそうな方向に10数度調整して、自動追尾モードで待機した。全員レーダー棟に集合し、川口福隊長は外部も含め安全監視、平沢実験主任は全体指揮、鮎川隊員はカウントダウン担当、伊東隊員は発射管制盤の操作、大野隊員はレーダー受信機、芦田は搭載機器確認、レーダー測距装置操作、福西隊員は記録器の担当と配置に着いた。打上げ時間の少し前にレーダー棟の出入り口を開けて外を見ると、警戒区域もなんのその10次、11次隊員、「ふじ」の乗組員がカメラの砲列を敷いていた。この日「ふじ」は、半舷上陸の許可が出たのだ。

  Xタイム(ロケット打上げ時刻をこのように呼ぶ習慣がある)5分前に全ての準備完了が確認された。X−1分前に発射管制盤からコントローラースタートのスイッチが押され、タイマーは動き始めた。1分後15時30分にS160JA-1号機は轟音を残し発射された。0、1,2、・・・ 信号が受信されたが、自動追尾ビーム内に入って来る時間が待ち遠しかった。X+13秒頃にやっと自動追尾ロック、測距ゲートロックにし、ロケットを完全に追尾し始めた。観測機器データも全て良し。X+2分14秒に最高高度約70kmに達し、X+4分30秒後昭和基地から西南西88kmの海氷上に落下した。昭和基地からのロケット打上げ第1号機は完全に成功であった。

  ところで固体ロケットの打上げの瞬間を写真に撮るのは非常に難しく、カウントダウン0でシャッターを切ると、まずは煙を少し出た姿しか撮れない。煙を吐いてランチャーを飛び出すロケットを撮る場合は、X+0+“あうん”のタイミングが必要である。はたしてカメラの砲列を敷いていた人達のどれ位が素晴らしい画像を取得できたのか。

  2号機は搭載機器が不調で調整に手間取った。私一人が10次隊とのお別れパーティーも早々と切り上げて、ロケット基地に向かった。「ふじ」はとっくに荷下ろしを終え、帰るばかりの状態なので、ある日10,11次隊員を乗せてラングホブデ(昭和基地の対岸にある南極大陸の露岸地帯)に日帰り遠足に出かけてしまった。この時期には、アデリーペンギンの雛が孵って可愛い盛りである。遠足に行った隊員達は、可愛い雛ペンギンを写真に収めた。この写真を持っていないのは、私だけである。そういった訳で、私一人がロケット基地で寂しく機器の調整に取り組んだ。

  最後は申し訳なかったが、観測機器の1台の出力を殺して打上げることにした。打上げは2月17日15時30分に行われた。結果はX+2分18秒に最高高度約88kmに達し、X+4分34秒に1号機と同じように西南西91kmの海氷上に落下した。これで我々11次隊のロケットオペレーションは成功裡のうちに終了した。

  この日もロケット基地がカメラの砲列が敷かれたのは、言うまでもない。「ふじ」が基地を早く離れなかったのは、この日に後の半舷上陸組にロケットの打上げを見せるためであったと、今でも信じている。諦めて早く離岸していたら、塚崎通信長の「ビセットなんのその」の歌は生まれなかったであろう。(11,14次隊冬、ロケット担当)

著者注:11次隊帰途の「ふじ」は、途中ブリザードに襲われ、氷海に閉じ込められた。脱出を試みたが、スリューの1本を欠損。「オビ号」に救援を頼んだが、「オビ号」でさえ割れる氷でなかった。「オビ号」の船長は「南極では、待つことが大切である」との言葉を残し、去っていった。昭和基地があるリュッツホルム湾の海流が、東から西に流れており、何時かは閉じ込められた船も外海に押し出されることを経験上知っていたのだろう。この日から間もなくして「ふじ」は、無事脱出に成功した。

芦田 成生(あしだ しげお)
(電気工学科1964年度卒業)
宇宙開発事業団(NASDA、現在JAXA)元追跡管制部長
(株)NEC東芝スペース元技師長

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