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江副隆愛

(2010年11月)


(本文は、去る10月9日のホームカミングデーに講演予定であったものです。)
只今、ご紹介頂きました江副隆愛(エゾエ タカヨシ)でございます。東京の新宿で、外国人の子弟に日本語を教えております。

さて、本日の話題の主は、大竹多気でございますが、私は、多気と妻・良子(ヨシコ,1946,0723没)との間に生まれた長女暢子(ノブコ、1978,0629没)の息子でありまして、多気とは血のつながりはあるとしても、全然多気については見聞しておりませんので、祖母良子について少し述べてみたいと存じます。

しかし、私の育ちましたのは、昭和の初めごろのことであり、私のうちだけの習慣かもしれませんが、大人の話が少し込み入ってくると、「子供はあっちへ行って遊んでおいで」と追いやられてしまいましたから、これからお話致します多気の妻、即ち私の祖母大竹良子の思い出話も断片的でエピソードが細切れでございます。お許し下さい。

 多気と良子の間には、長男の虎雄と長女の暢子、次男の千里(チサト)がおりました。学者としての多気の血をひき継いだ虎雄は、東京帝国大学の恩賜銀時計組であり、大蔵省づとめをして大成するわけであります。が、次男の千里は詩魂豊かな多気の血を受け、音楽・美術に優れた才能を発揮致しました。名前一つにしても、ゆかりを大江千里に求めたと考えられるではありませんか。20歳にして春光会音楽研究所を設立、日本で初ともいわれるオーケストラを誕生させております。絵にもすぐれた才能を発揮いたしました
家に飾ってあった油絵は25号大のフランスの風景を画いたものでしたが、近景の大木の幹や葉を、チューブから絵の具を搾り出して描いた力強い作品でありました。

 千里は20代後半に憧れのパリに移り住み、コンセルバトヮール音楽学校に入り、音楽の研鑽にはげむことになりますが、当時のパリはストラヴェンスキー等革新的音楽家の修練の場であり、美術界では、後期印象派の全盛時代でありました。
藤田嗣治画伯から贈られたサイン入りで、『大竹良子様へ』と添え書きのある猫のいるエッチングの自画像が私の少年時代の家の玄関にかざられていた記憶があります。

千里はある日、「お母さんに会いたい」という便りをよこしました。自分の死を予知したわけではなく、ただ母恋しさに手紙を書いたのかも知れません。しかし、冬薄暗く、きびしいパリの寒さはユトリロやブラマンクの冬景色の絵を思いだされれば、すぐ想像がつくでしょう。既に東京にいた時に病んでいた胸の病にパリの気候は合わなかったのです。千里はパリで客死してしまいます。   

末っ子の切なる手紙に母の良子の心はしめつけられ、そして何とか金を集めて1ヵ月半の船旅をしたのです。たった一人で言葉も、異邦人の心もわからぬ異国への旅行はどんなに心細かったでしょうか。しかし、「ボンジュール」「アンパン」「アンカフェ」「メルシイ」の四語さえ出来れば良いと千里が教えてくれたと笑って話したこともありましたし、インドの詩人タゴールと一緒に写したサイン入りの写真もあり、シンガポールなどでは船べりに来た現地人が、船客が海に投げる硬貨をもぐっていって拾ってくるのだが、彼らの手のひらや、足の裏などが真っ白で、濃緑の海中をヒラヒラ漂って見えたのがおかしかったとか、カイロではラクダに乗ったが降りる時ひっくりかえりそうになったとか、ピラミッドを背に写した記念写真などがありましたから結構旅を楽しんだのかも知れません。
マルセイユにつくと、日本人の領事が待っていたといいます。母の渡仏を心配した千里のはからいであったのでしょう。マルセイユからパリへ、そして千里の住んでいるアパルトマン(アパート)までつれていってくれたそうです。

 が、千里はその時死の床についていました。
間にあった! 母子の尽きぬ話題に、残された時間が費やされたことは想像に余りあります。両者の、土地を異にした悲喜交々の親子の会話は尽きなかったでしょう。
千里は母の到来を待っていたかのように10日ほどして亡くなってしまいます(1927,0601)。

その間のある日、アパルトマンの窓から見えるノートルダム教会を指さして「あそこに、本物のキリスト教がある。ぜひ行ってほしい」と母に告げたのです。
バラ窓、ステンドグラス、いかめしいゴチック建築、パイプオルガン、ミサなどすべてが、千里のホームシックをいやしていたのでしょうか。高村光太郎の「雨にうたるるカテドラル」(1908/9、パリ滞在中の思い出)を読む時、いつも私は叔父の気持ちが偲ばれるのであります。

おう又吹きつのるあめかぜ、 
外套の襟を立てて横しぶきのこの雨に濡れながら、
あなたを見上げているのはわたくしです。 
毎日一度はきっとここへ来る私です
あの日本人です。

どこの教会でしょうか、千里の葬儀が行われました。棺を運ぶ馬車に向って、町ゆく人々は、皆十字を切って祈り、挨拶をしてくれたと祖母はその時の様子を話してくれました。まだそのころの人々の心には傷心に充ちた人の悲しみを共有する人情が残っていました。

千里が死ぬと、パリに残る理由のなかった良子は、すぐ帰国手続きをしました。千里の遺骨は、後年『独立美術協会』の重鎮となった高畠達四郎画伯(虎雄の中学同級生)によって帰国します。

一方ノートルダム教会詣でをした良子は東京に帰り、早速近くの上富士前のカトリック教会を訪ねます。フランス人の神父は「あなたは女性だから四谷の雙葉のシスターから公教要理を習いなさい」と、雙葉を紹介しました。祖母と私たち暢子(江副)一家が麻布の霞町のカトリック教会で洗礼を受けたのは私が7つの年、1930年のことです。

 教会通いを始めた祖母は米沢にカトリック教会があることを知ります。主人の思い出のある場所。祖母はそこでキリスト教の伝道をしようと発心しました。当時の米沢の主任司祭はシュウェンテク(神言会員)というベルギー人でした。伝道師は佐藤吉茂氏でした。私たち親子(母、姉、妹)は何年か続けて夏休みを米沢の祖母のもとですごしました。教会の前には今なら小さなプールになりそうな溜め池があり、回りは全部田圃でした。その頃北山原の殉教地に十字架を建てようという案が出て、祖母は前記の二人と走りまわっておりました。私の知っている限りでは、お役所が、キリストの磔像を飾るのに難色を示したので、何も人物像のない只の十字架とマリアとヨハネとマクダレナの三人の像が飾られるようになったのです。その頃は,今と違って、新旧キリスト教は事ごとに対立していたので、カトリック側はとしてはキリシタン(カトリック)の殉教地をプロテスタント並みの十字架だけの記念碑で飾るなんて、とんでもないといったわけでした。

しかし、とにかく母が、東京を離れて、寒さも厳しい遠隔地の米沢で、教会への奉仕を主眼とし、清貧を旨とする伝道婦生活をすることについて、長男の虎雄(信者にならなかった)は難色を示しました。孝行息子と信心深い親との間に、多分激しい言葉の葛藤があったことでしょう。とにかく、祖母の伝道婦生活は何年も続いたわけではありません。しかし、東京へ帰ってからもフランシスコ会第三会員になり宗教活動をする傍ら、上智大学の三河島セッツルメント(当時は貧民窟と言う言葉があった)などにミヒャエル神父(イエズス会員)を助けて献身的な働きをしたのでした。

赤湯温泉で貧しい人たちのための慈善音楽会なども開かれましたっけ。私の姉、起三子は15歳ぐらいだったでしょうか、天才ピアニストという触れ込みでやったような記憶がおぼろげながらあります。起三子は千里の建てた春光会音楽研究所の後継者の母暢子を助けて生涯ピアノ教師でした。母は細腕一つで80歳になるまでピアノの弟子をとって生活の足しにしておりました。80になった時、母は私に言いました、「もう体力の限界だと思う、ピアノを教える力がなくなった。これからはお琴を教えることにする」といって琴を出してきたのです。その頃、昔とった杵柄で日本画も私の妻に教え始めました。

四君子など、いわゆる初心者向きの手ほどきでしたが師匠の池田 蕉園(雪月花という名品があった.多分戦災で消滅?)譲りの上品な筆遣いでした。

長くなりましたので、ここで話を終えることに致します。大竹多気の残した教育者魂は暢子を通じて、私どもの外国人への日本語教育に残り、私の息子隆秀を通じて、日本人への日本語教育、ひいては、耳の聞こえない人人(聾者)への日本語文法教育へと生成発展しております。祖母良子の宗教家魂は、母を通して私どものゆるぎなき世界観の元となり、妹の富美子がアメリカのドミニコ会女子修道院のシスターになったりして、脈々と続いております。

何か自慢話のような内容になってしまいましたが、大竹多気の100周年をお祝いくださる皆様に、『ご安心下さい。多気と良子の、暢子を通じて生まれた子孫らも一所懸命がんばっています』とお伝えしたつもりでございます。
このような機会をお与えくださった皆様に、心より感謝申し上げて話を終わります。有難うございました。合掌。

江副 隆愛(えぞえ たかよし)
新宿日本語学校顧問

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